(今日は日本語が長いです)
Many ask me the question “What is Sashiko?”. Well. I don’t have the answer to satisfy all of my wishes & hopes. The definition I occasionally share is a tentative one. Then, a further question arises “What Sashiko do you like?”. I finally found the clear line between the Sashiko I like & the Sashiko I dislike.
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Key is, again, “Acknowledgement” to the past. Sashiko which ignores the upstream is like a person who thinks their achievement is all theirs (solo-achievement) while ignoring the support from the surrounding – especially from the elderly who are very close to them like parents. I do not like anyone who disrespect their parents and elderly. The same principle applied to Sashiko. It is quite simple – as it is more like a fundamental question to humanity. There are so many types of Sashiko, in the Past, and then hopefully in the Future. Let’s be mindful of what type of “Sashiko Culture” we want to have from now on.
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刺し子に覚悟と共に向き合うようになって「刺し子とは何?」という命題を常に持ち歩いています。「これは刺し子。あれは刺し子じゃない。」と簡単に定義付けするのも嫌で、あまりにも掛け離れた物を除いて、好きな刺し子とそうじゃない刺し子という枠組みがあるだけだよと言葉にしています。好きな刺し子と好きじゃない刺し子。主観且つ好みの話なのですが、今日、ふとその境界線が見えました。
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好きな刺し子は「過去」の存在を認識し先人達を認めようとしてくれている刺し子です。嫌だと感じる刺し子は「過去」を蔑ろにする刺し子です。私が今戦っているのは、「蔑ろにする」どころか「存在すら認めない」中で流行としお金を稼ぐ枠組みなので、悪戦苦闘の毎日です。「刺し子は独学で〜」というのが嫌なのも、そこまでの刺し子を蔑ろにしている感じがして。情報や動画が溢れる現代において、ゼロから悟りまで繋がる独学というのは、本当に稀だと思っているので。どんな形の刺し子であれ、先人達の刺し子を無視する刺し子、あるいは先人達の努力や希望を想像すらしない刺し子は、どれだけ刺し子っぽくても好きになれないんだろうなと。
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同時に、どれだけ刺し子っぽい見た目じゃなくても、「過去」を認識している人の刺し子は好きなんだろうと思います。認識から尊重、そのまた上の「再現」まで形にできる人の刺し子は、もう好き以上の感情で見ています。過去を現代に持ってきてくれる人達の作品なので。
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「過去」という言葉を使い続けていますが、私の刺し子は「過去」で良いと思っています。その過去を再現できる人達と、その再現できた過去から未来を作り出す人達と、一緒に見つめる先が、刺し子の未来なんだろうなと思うから。
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どんな人間にも親、その親にも親が存在します。そしてどんな人間にも未来があります。好き嫌いや、一緒に過ごした時間の多寡、その存在をどれだけ知っているか…という違いはあれど、「私は親から生まれてきた」と認識することはとても大切だと思っています。私自身、父親を亡くした2013年が本当の意味での私の刺し子のスタートでしたし。この「どこからきて)過去)どこに行くのか(未来)」という繋がりは、文化でも同様です。
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私は過去を広げ続けます。昔から存在する刺し子が好きで再現ができる人達と共に、そしてその過去が未来に続くように。
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日本語で言葉にしたいことが増えてきました。なんとか文章として綴りたいと思っています。
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2024-03-04 23:57:59
🙏🏼🪷🧵🪡